大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 平成元年(う)491号 判決 1992年1月30日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人浦功作成、同山田隆夫作成、同鷹取重信作成の各控訴趣意書記載のとおりであるから、これらを引用する。

第一  控訴趣意中、理由不備の主張について

論旨は要するに、被告人は、原審において、事実面では原審の相被告人橋本俊彦(以下、橋本という。)との間の共謀を否認し、法律面では威力業務妨害が成立しないことを指摘し、公判を重ねて種々主張立証を尽くしてきたのに、原判決は証拠説明として極めて簡略な結論を示しているのみであるから、原判決には理由不備の違法がある、というのである。

しかしながら、刑訴法は、有罪判決の理由として、「罪となるべき事実」、「証拠の標目」及び「法令の適用」を示すことを要求しているに止まり、しかも、これらの摘示に欠けるところがないか否かは原則として判決書の記載自体によって判断すべきである。原判決をみても、その点の摘示に欠けるところはないから(原審審理の経過に照らし、その証拠説明がいささか簡易に過ぎるといえないことはないけれども、)、刑訴法所定の理由不備の違法はない。論旨は理由がない。

第二  控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は要するに、原判決が橋本の検察官調書の一部(いわゆる二号書面)並びに任意性に欠ける被告人の司法警察員に対する供述調書(その大部分が読み聞けの欠如により実質的に署名指印を欠くともいう。)及び検察官に対する供述調書(昭和六二年六月二三日付け)を採用して証拠の標目に掲げているのは、刑訴法三二一条一項二号、あるいは三一九条一項・三二二条一項に違反しており、この訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである(論旨はなお、原判決には刑訴法三〇八条に反する審理不尽の違法があると併せ主張している。)。

よって、調査検討する。

一  所論はまず、橋本の検察官調書の一部(二号書面)につき、その原審公判供述より信用すべき特別の情況がないというが、橋本は、原審公判で自らの検察官調書二通を示された際、その内容を読んで聞かされて間違いないとの趣旨で署名指印したと述べている。そればかりでなく、その検察官調書と原審公判供述の相違点は、本件のような行為をすることの目的と、その行為が相手方である田渕徹消防長(以下、田渕消防長という。)に及ぼす効果についての事前の認識とに限られている。そして、橋本は原審公判で本件実行行為に関する事実と被告人との間の共謀に関する事実とについてはほぼ検察官調書のとおり述べているのに、右の相違点に関してのみ、自己の責任を軽減するためか、控え目に事実を縮小して供述しているものと認められるから、原判決が右相違部分に限り橋本の検察官調書を証拠として採用した点に刑訴法三二一条一項二号に反する違法はない。

二  所論は次に、被告人の捜査段階の前記各供述調書の任意性を争う理由として、橋本の取調担当刑事森本哲雄が被告人の頭を殴るなどの暴行を加えたり、警察官が被告人に対し土下座させる威圧を加えた事実を指摘し(その外に警察官が被告人の逮捕時に暴行を振るった事実等もその前提として付加主張している。)、被告人も原審及び当審公判でこれに沿う供述をしている。

しかし、右森本刑事は当審公判で、被告人が吉永公一刑事に取り調べられている最中にその部屋に立ち入って、被告人の顔や頭を殴ったことはないし、右吉永刑事に用があれば廊下に呼び出しており、右のような事態が起こり得る筈がないと供述し、右吉永刑事も当審公判で森本の右暴行の事実を否定している。

所論は右吉永刑事が「記憶にありません」と答えている点をとらえて、暗にこれを肯定しているというが、他の「ありません」との応答や前後の供述の流れからすると、所論のような理解は困難である(なお、被告人が勾留中に二回にわたり通院している事実は認められるが、病状照会についての回答書には、被告人から過去の交通事故の後遺症の訴えがあったとされているのみで、その直前の警察官による暴行を推認させるものはない。)。また被告人逮捕時の警察官らによる暴行に関しては、右森本、吉永の両刑事及び中田広昭刑事が当審公判で明確に否定しているうえ、右刑事たちの逮捕時の状況についての証言や写真(当審・検第三号)からも、被告人が警察官らに踏んだり蹴ったりされて四つん這いになり、頭の毛をわしづかみにされた状態で逮捕状を目の前に突き付けられたという所論のような状況はなかったものと認められる(任意性に関する被告人の供述に作り話が含まれていることが明らかである。)。加えて、被告人の捜査段階の供述調書は原審公判における当初の意見ではすべて同意されていて、その任意性に争いがなかったものであり、第二一回、二二回公判に至り始めてその一部の任意性が争われた経緯がうかがわれるとともに、各調書には否認とも受け取れる被告人に有利な供述記載も数多く見られるのである。したがって、被告人の捜査段階の供述調書につき、その任意性の否定につながる警察官の暴行等を訴える被告人の供述(警察官調書の大部分につき読み聞けを受けていないとか、検察官に土下座をさせられたなどと述べている点も含む。)は総じて信用し難く、原判決が右供述調書を証拠として採用したことに刑訴法三一九条一項、三二二条一項に反する違法はない。

三  所論はなお、原審が弁護人申請の証人土井勉、同北岡景樹の採用を却下し、証拠の証明力を争う機会を与えなかった点において、原判決には刑訴法三〇八条に違反する審理不尽の違法があるという。しかし、両証人申請の立証趣旨は消防長の職務内容や執務状況あるいは被告人の消防署内での立場等とされているところ、右立証事項は本件犯行動機あるいは威力業務妨害の実害の有無、程度につながる間接的な事実に過ぎないうえ、これらについては原審で取調済の関係各証拠によりすでに攻撃・防禦がつくされているように認められ、重ねて両証人を採用して取り調べるだけの関連性、必要性は低いといえるから、原審が右各証人申請を却下した点に審理の不尽はなく、刑訴法三〇八条に反する違法はない。

以上のとおり、訴訟手続の法令違反の各論旨はいずれも理由がない。

第三  控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は要するに、原判決が被告人と橋本との間の共謀と威力業務妨害行為による実害の発生を肯認した点において事実の認定を誤り、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるというので、調査検討する。

一  被告人と橋本との間の本件共謀について

1  関係各証拠によると、本件犯行及びその前後の状況は以下のとおりであったものと認められる。

本件当時、被告人は島本町消防署の消防司令(総括警備司令)であり、橋本は同署の消防副士長として被告人の指揮下にあったものであるが、橋本はかつて被告人から借家や仲人のあっ旋をしてもらう恩義を受けたことがあり、常日頃マイカーで被告人を消防署へ送迎するなど、二人は互いに親しく付き合っていた。そして、被告人はこれまで土井勉前消防長の庇護の下に、影の消防長と噂されるほど島本町消防署内で隠然たる勢力を培ってきていて、周囲は被告人とその取り巻きの者たちを前田一派と称して畏れ、当然橋本を前田一派に属するものと見なしていた。

しかし、町役場の自治推進部長であった田渕消防長が右土井の後任として、昭和六一年一〇月一日付けで島本町消防本部の消防長に就任して以降にわかに様変りして、被告人は、田渕消防長から直接間接に「おれに逆らったら徹底的にやってやる。総括司令を外してしまえ。おれは前田一派をつぶすために来た。」などと事ごとにそしられ、冷遇されるようになった。そのうえ、昭和六二年四月一日付けの人事異動で被告人らと反目していた谷口晴規が優遇措置を受けたことなどから、被告人の田渕消防長に対する敵意が一気に高ずるに至った。

そして、その数日後の同月四日朝、被告人は橋本に対し同人方前の道端で、「田渕は自分らの敵や。何か事件を起こせば、田渕は役場へ帰るやろ。」と持ちかけ、その具体的手だてとして、「犬か猫の死骸を消防長の部屋に入れたら騒ぎとなり、消防長の管理能力を問われる。犬や猫は自分が探すけれども、お前も道路でひかれたようなのがあったら見付けて来い。」などと言って協力を求めると、橋本も逆らうことなくこれを了承した。即日、被告人はたまたま捨て忘れて自宅に放置してあった子猫の死骸を使用することとし、より追力を付けるため赤チンを振りかけようと思い立ち、自ら赤チンを買い求めてきて子猫の死骸にこれを散布した。更に、被告人は田渕消防長の作業服のポケットに入れる犬の糞を自宅近くの幼稚園の前のごみ箱から拾いあげて来て本件犯行の準備を整えた(これらの準備行為をしたこと自体は被告人も原審及び当審公判で自認している。)。続いて同日夕方、被告人は橋本に対し、猫の死骸や犬の糞を消防長室へ運び込む手順を教え込んだうえ、自分はアリバイ工作に福井の田舎へ帰ったようにするので、一人で本件を遂行するように命じた。

翌五日(日曜日)午前九時四〇分過ぎころ、橋本は被告人の指示どおり非常階段から三階の消防長室へ入り、犬の糞をロッカー内の消防長の作業服のポケットへ、猫の死骸を事務机の中央引き出しへそれぞれ入れた後、これまたかねての打ち合わせどおり妻の体調が悪いことにして早退した。その後橋本は同日午前一一時ころ、訪ねて来た被告人に対し、犯行直前にゴム手袋をはめている際、消防署員の片貝に見られたことを報告するとともに、犯行に使用したビニール袋やゴム手袋の入った缶を手渡した(被告人は当日この缶などを淀川へ捨てに行ったことを終始認めている。)。更に橋本は、被告人に言われるまま用心のため、もう一度消防署に戻って閉め忘れた非常階段の三階の扉の鍵をかけるなどした後、当日の午後二時ころから夕方まで被告人と行動を共にしていた。以後も毎日のように被告人と橋本は顔を合わせて本件に対する事後の対応などを話し合い、同月八日には、被告人は証拠隠滅のため自宅のカーペットのハウスクリーニングを業者に行わせると同時に、橋本に本件の猫を洗った庭の池の掃除をするように指図したりしていた。その数日後には、被告人が以前子猫一匹の死骸を町役場で処置してもらうために消防署へ持って行ったまま自転車置き場に放置してあると言い出し、被告人と橋本の二人でこれを淀川へ捨てに行ったり、被告人が赤チンを買いに行った自転車まで橋本に預けるなどの隠ぺい工作を続けていた。

他方、田渕消防長は、本件当日(四月六日)午前八時一五分ころ、消防本部へ出勤して消防長室で犬の糞や猫の死骸を発見し、強いショックを受けたが、直ちに消防署員に事態を確認させた後、これまでに先々代の西川消防長のころ生じた同種の事件(消防長の座布団に待ち針四、五〇本が隠されていたり、消防長室のきじの置き物の首が切り落とされていた件)を想起し、このまま捨て置くわけにはいかないと判断し、町長らと相談のうえ、警察に本件を届け出るに至った。

その後、警察の消防署員らに対する事情聴取が始まり、橋本が本件犯行当時の目撃者と思い込んでいた片貝まで警察に呼び出されたことをきっかけに、被告人は橋本に、「もうあかんからお前一人でやったことにして出頭してくれ。」と依頼した。橋本は、「それやったら余りにも虫が良すぎる話と違いますか。」といったんはこれを断ったが、被告人は重ねて橋本に対し、「後々の生活の面倒とか給料の保証はしてやるさかい、二人とも捕まったら共倒れになる。知り合いの弁護士に聞いたら大した罪にならんとの話だから心配するな。」と説得し、その結果橋本も渋々納得して、同年六月三日、島本町長に本件の犯人が自分であると申告し、その足で警察へ出頭し即日逮捕された。そして、橋本は警察で当初被告人の指示どおり、本件が自己の単独犯行であると説明したものの、逮捕翌日早くも被告人との間の本件共謀の事実を自供するに至っている。

2  所論はこれに対し、被告人と橋本との間に本件共謀の事実はなく、本件が橋本の単独犯行で、その実行行為について被告人が刑事責任を問われるいわれはないとし、被告人の弁明に沿って以下のとおり主張する。

本件の発端は、橋本が日頃田渕消防長から無視されていたうえ、前記四月一日付けの人事異動で敵対関係にあった谷口晴規に先を越された妬み心から、同月三日から四日にかけて被告人に対し本件犯行を持ちかけたことにある。その際、橋本は被告人から翻意を求められると、通勤の送迎のことで恩を着せたり、被告人の勧めにより株で損をしたことなどを種に協力を強いたので、被告人もやむなく一応これを了承し、同日中に橋本の依頼に従い猫の死骸と犬の糞や赤チンを準備した。被告人は自ら用意したこれらの小道具を橋本に見せながら、今一度犯行の取りやめを説得すると、橋本もようやく折れて納得したので、被告人は猫の死骸とビニール袋入りの犬の糞を缶に入れて被告人方の玄関先のテーブルの上にそのまま放置しておいた。翌五日朝、橋本が被告人方を訪れ、顔を合わさないままインターホーンを通じて猫の死骸などを処分すると称して持ち帰ったのに、同日午前一〇時ころ消防署から電話で、本件をやってしまい、しかも消防署員の片貝に見付かったと連絡してきた。驚いた被告人は橋本に対し、右の電話の中ではもとより、被告人方へ呼び付けて叱責し、再度消防署へ戻りすぐに片付けるよう強く迫ると、橋本も了解して帰って行ったが、その日の午後二時ころたまたま橋本と出会った際、橋本がそのまま猫の死骸などを片付けていないことが判明し、喧嘩別れとなった。その後同年六月に入り、被告人が橋本に対し、自ら町長に本件の事実関係を説明する旨告げると、橋本は被告人に謝罪したうえ、町長に正直に告白すると伝えて自首したものである。以上の経過が本件の真相である。

所論は、被告人の弁明に沿って以上のとおり主張する。

3  そこで検討するに、まず、所論のいう橋本の単独犯行を肯定するには橋本自身にそれだけの動機が必要であり、まして被告人の再三にわたる制止にもかかわらず、橋本がこれを無視して本件実行行為に走ったとするならなおさらのことというべきである。ところが、田渕消防長は橋本に対し顔と名前がつながらない程度の認識しかなく、橋本が一方的に田渕消防長を恨みに思う理由に乏しいうえ、仮に所論のような橋本の谷口の昇進に対する嫉妬心があったにしても、そこから田渕消防長に対し本件犯行に及ぶとすることには飛躍があると言わざるとをえない。所論はそのうえ、橋本が本件犯行に及んだのは、被告人に株で損をさせられた恨みから被告人を本件に巻き込み、周囲の被告人に対する見方を利用して被告人を本件の犯人に仕立てあげる目的まであったと強弁する。しかし、それなら橋本が何故警察で当初単独犯行と申告したかの説明がつかないし、前記のようなこれまでの二人の友好関係や本件犯行前後の両者の協力態勢(なお、橋本は、本件後被告人が交通事故で入院した際、何度も見舞いに行っている。)などから見ても、所論はとうてい他を納得させるに足りない。これに引き換え、被告人は田渕消防長から前示のような冷遇を受けていたものであり、自己を厚遇してくれた土井前消防長の時代に比しその違いを身に染みて感じていた筈であり、少なくとも田渕消防長の行動を牽制し、あわよくばその更迭まで望んでおかしくない立場にあったものであるから(被告人の供述全般を通じて、はしなくも田渕消防長に対する強い敵意が現れている。)、本件を思い立つ動機を十分に備えていたと認めて差し支えがない。またそう認めてこそ、被告人が何故に本件の準備行為等に及んだかの理解も容易になるのであり、また、被告人の一連の弁明が終始一貫せず矛盾を重ねるばかりで、自ら行った本件犯行に関わる事前事後の工作を説明しきれないでいるわけの説明もつくのである。

所論はそれでも更に、被告人の苦し紛れの弁解(本件に使われた猫の死骸や犬の糞が被告人の準備したそれとは別物であり、橋本が本件犯行直前にすり替えたものである、とするもの。)に乗って、被告人の準備行為が本件とは無関係であるという。すなわち、被告人が用意した猫は白黒のパンダ様のものであるのに、机の引き出しの中の証拠写真の猫は縞模様の虎猫であり、糞も乾いて匂いの消えていたものが悪臭の強い人糞に変わっていたというのである。しかし、所論のように橋本には被告人を本件の犯人に仕立上げる目的があったというのなら、橋本は当然被告人が準備した猫の死骸などを使うはずであり、わざわざ別のものとすり替えたりすれば、所論の意図に反することにもなりかねないのである。そのうえ、被告人自身、橋本がすり替えたとする別の猫の死骸そのもの(消防署の自転車置き場に放置されていた。)を橋本と一緒に捨てに行った旨原審公判で供述していることとも両立し難い。しかも、右のようなすり替えの言い訳は、原審公判の終わりころにほのめかされた後、弁護人が当審公判で始めて被告人と伊藤孝の対話の録音テープ(これに録音された対話では、消防署の自転車置き場に放置されていた猫の死骸が本件犯行の前後ですり替っているのを伊藤が目撃したようになっているが、伊藤の証言により、その対話は、同人が被告人の用意したレポート用紙の質疑応答に従ったものに過ぎないものと認められる。)等により立証しようとしたものであり、死骸のすり替えが真実なら、前記証拠写真によってすぐわかるはずであるのに、何故もっと早い段階で明らかにしようとしなかったのか理解に苦しむところである。所詮、被告人が猫の死骸などを準備した自己の行為と橋本の本件実行行為とを切断し、自らの刑責を逃れようとする遅ればせの言い逃れとしか受け取れない。

以上のように、被告人が捜査及び公判を通じてその都度持ち出している各種弁明は不自然不合理で措信できないのに比して、橋本の原審における供述は本件の事実経過によく相応し、その他の関係各証拠(被告人の捜査段階における各供述調書中の自供部分も含む。)を総合すると、被告人と橋本の間の本件共謀の事実は明らかであり、これを肯認した原判決に事実誤認はない。

二  本件業務妨害の状況について

所論は、本件当日には田渕消防長が行うべき各種決裁事務や報告受理等の業務は予定されていなかったし、仮に何らかの業務があったとしても、本件により田渕消防長の業務が現実に妨害された事実はないという。

田渕消防長の原審証言やその他関係各証拠によれば、前記四月六日の前日が日曜日であったため、消防長としての決裁等の仕事が二日分たまっていた事実が認められ、これらの業務が緊急を要するか否かは格別、所論のように田渕消防長がなすべき業務自体が一切なかったなどという主張はとうてい容れることができない。また、所論の業務妨害の実害発生の有無の点については、そもそも威力業務妨害罪はいわゆる危険犯として現実に業務妨害の結果が発生したことを成立要件とせず、一般的に見て業務の執行を阻害するおそれのある状態を発生させれば、それで罪が成立するのであるから、本来実害の有無を論じる必要はない。しかし、田渕消防長が、自ら原審公判で証言するように、思いがけなく猫の死骸などを発見して恐怖感や嫌悪感を覚えたというのも至極もっともであり、通常人の感覚からかけ離れたものとはいえず、誰しもその結果しばし仕事に手がつかない状況に陥っても不自然ではない。ことに、犬の糞が作業服のポケットに入れられた以上、田渕消防長がいつも執務に際してそうしているようにその作業服に着替えることはできないし、猫の死骸がそのまま事務机の引き出しに入れられている以上(ちなみに、田渕消防長自身は猫の死骸を取り除こうとはしておらず、これが現実に除却されたのは、当日の午後になってから警察官が消防長室にやって来て、猫の死骸を持ち帰った午後二時四〇分ころのことであると認められる。)、その事実に意思が制圧され、普段その事務机に座って行われている消防長の消防長室における通常の執務が行うことができなくなることも見易いところである。したがって、消防長の業務の執行が一般的にみて阻害されるおそれがある状態が具体的に発生したことは明らかであり、関係証拠によれば、当日の出勤後消防長室で朝から行われることが予定されていた田渕消防長による部下からの報告の受理や決裁等の執務が現実に阻害されたことも明らかである。ただ、本罪は遅くとも業務妨害のおそれのある状態が発生した段階で既遂となるのであるから、原判決が罪となるべき事実の中で、当日の午後二時四〇分過ぎころまでの間田渕消防長の執務を不可能ならしめたと認めているのは構成要件上は無用な認定というべきであるが、本罪の既遂を認めた点において原判決になんら事実の誤認はない。

以上のとおり、事実誤認の各論旨はいずれも理由がない。

第四  控訴趣意中、法令の適用の誤について

論旨は要するに、原判決が威力業務妨害罪の構成要件に関する解釈を誤ったため、本件に刑法二三四条を適用したもので、この法令適用の誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるというので、調査検討する。

所論はまず、原判決が認定した本件実行行為が同条にいう「威力を用い」との構成要件に該当しないというが、右の要件は人の意思を制圧するに足りる勢力を行使することであって、実際に人の意思が制圧されたことを要しないとされているところ、被告人らの本件行為は、単なる思い付きから面白半分にしでかした悪戯の域を越えていて、一定の思惑の下に消防長の業務を妨げることを意図して用意周到に計画された(指紋を残さないためゴム手袋を使用したり、アリバイ工作を謀るなど、事後の警察当局の捜査を予期している。)ものであり、相手方に少なからぬ恐怖感や不快感を与え、その意思を制圧して、現実に消防長室における消防長としての通常の執務を不能にならしめる態様のものであるから、当然同条の「威力を用い」との要件を満たすものと解されるので、所論は採用することができない。

所論はまた、威力業務妨害罪は危険犯ではなく侵害犯(仮に危険犯としても具体的危険犯)と解すべきであり、本件当日田渕消防長が行うべき業務はなく、仮にこれがあったとしても、被告人らの本件程度の行為により田渕消防長がいささか嫌悪感を持つことがあっても、その業務が妨げられる具体的な危険はなかったというが、前記第三の二のとおり本罪は危険犯であり、しかも、前示のとおり現実に業務の執行が阻害されるおそれのある状態が少なくとも具体的に発生したと認められるから、所論も排斥を免れない。

所論は最後に、本件消防長の業務が民間事業のそれとの類似性を欠き、本罪の業務に該当しないというが、本件妨害の対象となった田渕消防長の業務(報告の受理や各種決裁事務)が強制力を行使するような権力的公務でないことは明白であるから、右職務が本罪の対象となる業務にあたる(最高裁判所昭和六二年三月一二日決定参照。)と認められ、所論もまた採用することができない。

したがって、法令の適用の誤の各論旨はいずれも理由がない。よって、刑訴法三九六条、一八一条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例